【タイムトラベルあおもり】016.昭和31(1956)年12月25日 師走の街
写真家藤巻健二さんによって撮影されたフイルム群の中に、昭和31(1956)年12月25日と撮影日(当日の天気を青森地方気象台に照会し、写真と矛盾がないことを確認済)が記された一連の写真があります。
およそ60年前の師走、青森市内のクリスマスの1日を記録したものです。
24時間という限定された時間の中で、街のあちこちの様子が写し取られ、個人の記憶にしか残っていない先人たちの暮らしぶりを垣間見ることができます。
まず、現在も多くの人々が往来する拡幅工事中?の古川跨線橋(写真1)。
丁度、正月用品を求めに、古川市場に向かう人、帰る人。
台所を預かる角巻を羽織った主婦たちが足早に渡っていきます。
画面右奥には、懐かしい工藤パンの看板や撤去されてしまった消防署の火の見櫓が見えています。
現在の古川跨線橋
跨線橋から見渡せる青森駅構内(写真2)では、保線区員達が除雪作業をしている中、蒸気機関車が浦町駅へ向かっています。
これから10数年後には、ここを電気機関車が走ることになるのです。
写真3に目を転じると、跨線橋の上り坂には、兵隊たちが行進しているような、黒い人の列が見えています。
当時は車社会に突入する直前、移動手段は遠方へは汽車・バスや馬ソリ、近場は自分の足で歩くしかありませんでした。
遠くに見えている黒煙は火事ではなく、蒸気機関車が吐き出す煙です。街中を走る蒸気機関車のススで、洗濯物が汚されることも時々あったようです。
跨線橋を降りた交差点(写真4)には、この年に青森県内に初めて設置された信号機が見えています。
また、信号機が設置されたのに、警官が交通整理の際に上がる台が、そこに残されています。
画面右端に古川交番も写っているので、時々警官が手信号で交通整理もしたのでしょう。
現在の古川交差点
新町通(写真5)の各商店には歳末大売出しの看板が所狭しと掲げられています。その看板からだけでも、当時の街の賑わいが伝わってきます。
右端に見える馬ソリは、郊外からの買い物客を乗せてきたものでしょう。現在のように機械除雪が広域に行われていない時代、馬ソリは冬の欠くことのできない移動手段の一つでした。
行き交うご婦人方は、角巻を羽織っている人が多く、この頃が角巻の全盛期だったようです。
現在の新町通
新町通と柳町の交差点付近には宝くじ売り場(写真6)があり、「初春の夢」を買い求める人が並んでいます。
直前の当選結果が貼り出してあり、1等は100万円だったことが読み取れます。ちなみに、昭和30年の大卒初任給は、およそ1万3千円でした。
売り場の壁には翌年昭和32年のカレンダーが貼ってあり、正月支度をしているのがわかります。
また、写真に写っているカレンダーが撮影日をあらわしているわけではないという、古写真解読上の注意点を教えてくれました。
現在の同地点
日が暮れ仕事帰りの人々は、それぞれパチンコ屋(画面左はモナコ)に寄ったり、喫茶店でコーヒー(昭和29年当時、50円)を飲んだり、あるいは屋台(写真7)に寄り道していく人もいたようです。
今では全く見ることが出来ない「屋台長屋」が、今のアラスカ会館横にあったことを伝えてくれる貴重な写真資料です。
現在の同地点
今回は60年前に撮影された7枚の古写真を紹介しましたが、同一地点の今昔を比べてみると、街を自らの足で歩いている人数の多少に驚かされます。
旧青森市の昭和30年の人口は、9万3千人余り。
人口は今よりずっと少ないのに、街は賑わいを見せています。
移動手段の変化、商店街の分散化など色々な原因が考えられるのでしょうが、街の活気が感じられなくなっているのは、間違いないようです。
師走から正月にかけて、この街の未来の構図を一人ひとりじっくりと考えてみては、いかがでしょうか。
(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会:青森太郎)