【タイムトラベルあおもり】009.早春の風物詩だった「雪切り」
今年の冬は、例年だと青森市の半分くらいしか降雪量のない弘前市が青森市の2倍位もあるという「異常気象」の年だったようです。
現代は雪国でも車社会となっているため、どんなに雪が多く積もっても、大型除雪機で通勤通学路を確保しないと生活が滞ってしまいます。
車が夏場と同じように走行できるよう、深夜から早朝にかけて除雪が行われ、市民自ら道路の除排雪を行うことはほとんどなくなりました。
昨今は、雪の除排雪が完全に行政の仕事になっています。
それでは、車社会になる以前はどうだったのでしょうか?
ここに昭和20(1945)年7月28日の青森空襲を乗り越えて今に残った貴重な戦前の青森市内を写した写真があります。
昭和15年頃に、青森市柳町通りの「雪切り」の場面を写し取ったものです。
画面奥のドーム状の構造物があるのが松木屋百貨店(現在の高森銘茶堂の所にあった)です。
雪切は春近くなった3月中旬頃に、日にちを決めて、市内一斉に行われました。
手に手にツルハシやスコップを持って、氷のように固くなった雪を砕いて、傍らに山のように積み上げていきます。
女学生らしき姿まで見えていますから、手伝える者は総動員だったのでしょう。
除雪機械のない時代、人力しかないので、市民総掛かりにならざるを得なかったのでしょう。
地域ごとに共同作業を行うことによって、地域のことは自分たちで行うのが当たり前という意識が生まれていったようです。
また、青森市大工町幼稚園の宣教師が昭和13(1938)年に雪切りを撮影したフイルムには、文字通りノコで雪を切っている場面が登場します。
半年分の雪が降り積もり固まったのですから、1m以上の厚さは優に超えていたようです。
機械除雪の歴史を紐解いてみると、まず太平洋戦争中、弘前市にあった旧陸軍の第8師団で、トラックの先にVプラウを取り付けた除雪機械を試作したが、思うような結果は出なかったようです。
敗戦後、米軍が進駐してきましたが、人力の数10~100倍もの力を発するブルドーザーに驚いたといいます。
青森県内において、機械除雪の先駆をなしたのは、弘南バスでした。
昭和24(1949)年頃に、アメリカの軍用六輪トラックにVプラウをつけて、弘前~相馬線の約20キロを冬期間常時除雪を行い、路線を確保したそうです。
この後、青森県土木部が機械除雪を計画化させるのは、昭和32年頃になってからです。
しかし、それは主要幹線道路に限られていたようで、それ等に接続する生活道路の殆どは機械力による除排雪は行われず、春が近くなると昔ながらの「雪切り」が行われていました。
氷のように固くなった雪を割る音が市内に響き渡り、春間近を知らせる風物詩だった雪切りも、行政による機械除雪実施率が高くなっていくに従って必要なくなっていきました。
(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会:青森太郎)