ただひたすらに 相撲道を歩む

首都圏等で活動する「あおもり~な」(青森思いの県人等)を紹介します
2015.7.24更新

ただひたすらに 相撲道を歩む

あおもり〜な 009 小野川親方 (おのがわおやかた、元武州山、本名・山内隆志)さん
  • 30代
  • 青森市出身、金木高校、大東文化大卒業
  • 東京都在住
  • 武蔵川部屋→藤島部屋

「一人部員」の高校時代を経て、学生横綱へ

小野川親方が生まれ育った青森市浪岡(旧浪岡町)は、鳴門親方(第59代横綱、隆の里)をはじめとする多くの力士を輩出する相撲が盛んな土地柄。町内には野外も含めていくつもの土俵があり、町民が参加する相撲大会が開かれていた。「小学校の時、町で開かれる相撲大会で負けたんです。よく覚えていませんが、悔しかったんだと思います」。野球部のピッチャー、4番の座を捨て、中学校では相撲部に。2年の夏、浪岡に合宿していた大東文化大学相撲部の練習に参加し、言われるままに大学生と対戦し勝利。この時、身長183センチ、体重110キロ。その体格と勝負強さが松坂憲明監督(五戸町出身)の目に止まった。「高校を卒業したら、うちに来い」

中学3年になると、県内屈指の選手に成長した。加藤精彦(のち高見盛)、古川忍(のち若の里)と頂上を争い、熱戦をものにした加藤は全国大会でも優勝、山内少年は東北大会で優勝した。各高校から声が掛かったが、実家に近く、相撲の指導者がいる五所川原農林高校を考えた。しかし、その先生が金木高校に異動となり、迷った末、「一人部員」覚悟で金木高校へ。3年間の孤独な稽古に耐えた後、かつての約束通り大東文化大学に入学すると同時に、武蔵川部屋の朝稽古にも出入りするようになった。松坂監督が先代の武蔵川親方と仲が良かったからだ。

当時は武蔵丸関をはじめとした一横綱、三大関を筆頭に総勢30人を抱える大所帯。他の部屋から千代大海、海鵬、栃東といったそうそうたる力士も出稽古に訪れた。横綱や大関は体の大きさも気迫も飛び抜けていて、ぶつかり稽古を見るだけで大きな刺激になった。授業のない日はもちろん、名古屋などへの巡業にも同行して稽古をともにし、ちゃんこ番も手伝った。4年生で学生相撲優勝。武蔵小川部屋への入門が決まった。2部リーグ所属の大東文化大学にとって初の学生横綱、そして初の角界入りを果たし、監督や大学側の大きな期待に応えた。

史上2番目の“遅咲き”、32歳で新入幕

相撲部屋の朝は早い。30人が順次稽古をするため、序の口は朝5時半から稽古を始め、8時からの上位力士の稽古を見学し、風呂やちゃんこを準備。関取衆の風呂、ちゃんこの後に若手もようやく朝のちゃんこを食べ、その後は先輩や自分の洗濯をし、稽古まわしを干す、掃除、土俵の手入れと続き、昼寝する暇もなく、夜のちゃんこの準備が始まる。自由時間はない。厳しい序列の世界だけに、幕下以下は大部屋に20人ほどが寝起きし、畳一枚分に布団を敷くのがやっとな、ぎゅうぎゅう詰めの大部屋暮らしだ。

1999年1月場所で幕下付出60枚目で初土俵を踏み、着実に番付を上げたが、翌年5月の場所中に左ひじを脱臼骨折し途中休場を余儀なくされた。手術をし、稽古を再開したが結果が出ない。「いつまで頑張ればいいんだ。レベルが違い過ぎる。オレは関取にはなれない」。そんな弱気に飲み込まれ、こらえ切れなくなって実家に電話をした。「あと1年だけ頑張ってみろ」。母のその言葉で、「もう1年しか相撲が取れない」という“出口”が見え、「やれるだけやってみよう」と前向きに姿勢が変わった。休みを返上して黙々と稽古を重ねた結果、1年後の九州場所まですべての場所を勝ち越して十両に駆け上がった。「やればできると思った。この頃は、相撲をとることが楽しかった!」

しかし勝負の世界は厳しい。1年ほどで幕下に陥落すると、個室を持ち、給料を手にし、付き人がいる関取の暮らしから、大部屋に逆戻り。3回ほど、十両と幕下を行き来している間に、大学の恩師である松坂監督が急逝した。場所が終わる度に結果を報告しに訪れるたび、「強いくせに心が優しいから、相手のことを考えて負けてしまう」「大学から横綱を出したい」と言葉をかけてくれた監督の急逝が“後押し”になった。2度目の十両優勝を果たし、幕内に上がった。32歳という当時歴代2位の年長新入幕は「遅咲き」と言われた。「32歳で上がれるとは、自分でも思っていなかった。あの頃は楽しかった。もうそんなに長くはやれないと思ったから、一番一番、悔いを残さずという思いで土俵に上がった」。遅咲きと言われながら懸命に相撲を取る姿には、大きな声援が送られた。

記憶に残る「銀星」 相撲界の隆盛願い親方に

力塩(清めの塩)を右手でぐっと握りしめて額に近づけ、祈るようなしぐさの後に塩をまく。辛抱強い突き、押し相撲、寄りきりが身上の武州山関は、がむしゃらにぶつかる、真面目で男気のある力士として多くの人に愛された。最高位の幕下三枚目に上がった時は、初土俵から既に11年が過ぎようとしていた。

多くの人の記憶に残っているのは、入幕した翌年の九州場所6日目、大関琴光喜戦。大学時代は同学年で、日大で2度の学生横綱に輝いた勝ちっぷりを見た松坂監督からは「いつか田宮(のち琴光喜)に勝て!」と期待を掛けられ、自身も対戦を心待ちにしていた相手。大学時代を含めて4回対戦し、1勝しているが、幕内では初対戦。武州山関が立ち会いから思い切ってぶつかりのど輪でのけ反らせたところを、得意の右四つで食い止める琴光喜。大関の出足に俵に詰まった武州山関は土俵際で体を交わし、捨て身の引きで粘る。物言いがつくが、武州山関の右かかとは俵にしっかり残っていた。「銀星」を手中にした勝利者インタビュー、「一生の思い出です」という言葉に、万感の思いがこもった。

翌年、大相撲界は八百長疑惑で揺れたが、「いつも全力で土俵を務める武州山の相撲は、八百長ではない」と認められ、“ガチンコ力士”認定者第1号となった。しかし、そんな力士生活にも幕を引く日が訪れた。「稽古をする気力がなくなった」と、2013年1月場所の千秋楽で引退を表明。くしくも同じ日、同窓生の高見盛も引退表明した。その翌日、読売新聞「編集手帳」は武州山関の引退を惜しみ、「賜杯ならぬ記憶にその名を残し、末長くたたえられていい栄誉だろう。…稼いだ勝ち星の数や、浴びた喝采の数だけでは“重み”を量れない勲章が、男の人生にはある」と、賛辞を贈った。

2013年10月、両国国技館で断髪式と年寄「小野川」の襲名披露が行われた。親交のある小林眞八戸市長や鹿内博青森市長、大東文化大学の関係者をはじめ約300人が集まった。常に励まし続けた故・松坂監督と、病床から「頑張れ」と言葉を贈りながら逝去した父の遺影が見つめる中、次々に大銀杏にはさみが入れられた。ひじや膝のケガに苦しみながら幕内に通算11場所在位した14年の力士生活を、中学校相撲部で1年後輩の呼び出し・弘行がしたためた相撲甚句は、聞く人の心にしみじみと響き、国技館は静寂に包まれた。師匠の藤島親方は「稽古を休まず真面目だった。若い衆の面倒もよく見て、部屋のいいお手本だった」とねぎらった。

部屋付きの親方となって2年半あまり。「大学の後輩や、青森でも、相撲をやりたいという人がいれば飛んでいく。相撲協会の大変な時期を知っているだけに、相撲を末長く残していかなければいけない責任を感じている。相撲好きがもっと増えて、大相撲が盛り上がってくれればありがたい」。柔らかい口調、柔和な表情ながら、どこまでも真面目に相撲道を考え続けている。

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「次は、青山でウェディングプランナーをしている牧野亜希子さんです」(小野川親方)

<2015年6月2日 インタビュー>
*写真提供:柿崎真子さん(青森市出身)

編集後記:「すべては土俵で」。力士の生き様に、相撲の奥深さを見た

五月場所が終わった後、荒川区にある藤島部屋の平日午後3時。昼まで続いた熱い稽古が跡形もなく掃き清められ、中央に幣束を据えた土俵には、近寄りがたい神聖な空気が漂う。その景色と気配に、相撲が神事だということを思い起こさせられた。

初めてお会いする小野川親方は物言いが穏やか、控えめで、どれほどの苦労と努力をされたかについては、ご自分ではなかなかおっしゃらない。でも、内に秘めた闘志は土俵でこそ、あらわになる。立ち会いで、頭からぶつかる直前、負けそうな時、土俵際でこらえる瞬間…。親方をご紹介くださった柿崎真子さん(「あおもりっていいなぁ008」でご登場)のカメラは、その表情、闘いぶりをリアルに捉えていた。

取り組みへの気合いを込めているのか、あるいは無心になろうとしているのか。力塩を握りしめ、額に寄せる武州山関ならではの仕草を捉えた柿崎さんの「1枚」は、親方の要望で断髪式のポスターに使われた。日本相撲協会監修の「わくわく大相撲ガイド」(河出書房新社)の取材等で、相撲部屋や国技館で顔を合わせるうち、言葉を交わすようになった柿崎さんを信頼し、親方は断髪式の写真撮影を依頼したという。今回、写真提供と取材同行に快くご協力くださった柿崎さんに、この場を借りて、深くお礼申し上げます。

「そういえば…」と、親方が語ってくださった青森の思い出話をひとつ。金木高校時代、浪岡の実家からは通えないということで、旅館として営業していた「斜陽館」に、ナント下宿していたそうです!「玄関のレジ奥の小部屋に寝起きしていて、宴会があると片づけを手伝った。飯も良かったし、そこのおばちゃんが3年間、毎日弁当を作ってくれた。いい人だったなぁ」と親方。十両昇進を祝って金木高校の先生たちが激励会を開いてくれた時には、その“懐かしいおばちゃん”から花束を贈られたという。大きく成長した山内少年に再会したおばちゃんも、さぞ誇らしかったことでしょう。

大学時代の友人が八戸の会社に就職したこともあり、最近は八戸にたびたび出かけている親方。県南出身者がメンバーに多い、首都圏の若手経営者らでつくる「AOsukiの会」とも交流がある。「自分は津軽の人間なのに、八戸の人達はすごく歓迎してくれて嬉しい。新幹線ですぐ行けるし、サバも美味しいし、八戸はいいとこころですね」

最後に気にしていたのは、県出身力士たちのこと。「今は若手が阿武咲だけで、安美錦、若の里など高齢化している。県内からももっと若手力士が出てきてくれれば」と言いつつ、「でも、一つの県からこんなにたくさんの力士を出していることはスゴイこと。メディアも、もっと取上げてくれたら…」。親方らしく、相撲人気の行く末を気にしていらっしゃる様子に、「これからもっと応援しよう!」と強く思いました。(編集・小畑)

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